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大阪地方裁判所岸和田支部 昭和57年(タ)27号 判決

原告

打田美治

右訴訟代理人

野仲厚治

被告

大阪地方検察庁検事正

稲田克巳

右代理人大阪地方検察庁岸和田支部長検事

大本正一

主文

一  原告の主位的請求につき、訴えを却下する。

二  原告と本籍和歌山県和歌山市小雑賀三番地亡佐藤光治との間に親子関係が存在することを確認する。

三  訴訟費用は二分し、その一を原告、その余を国庫の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判〈省略〉

第二  当事者の主張

一  原告の請求原因

(主位的請求について)

1 原告の母訴外打田美代子(以下、美代子という)は、昭和二二年一月三〇日ごろ、本籍和歌山県和歌山市小雑賀三番地訴外亡佐藤光治(旧姓、山本光治。以下、光治という)と結婚式を挙げ、大阪府泉南郡田尻村大字吉見一一一四番地の二五で同居生活に入つた。

2 美代子は、結婚後も大阪無尽株式会社に事務員として勤務し、光治は、株式会社日繊のトラック運転手として新たに勤務を始めたのが、美代子は、やがて光治の子を宿し、つわりがひどくなつたので、昭和二二年六月ころ、勤務先を退職し、昭和二三年一月一四日、原告を出産した。

3 美代子は、同年一月二二日、原告の出生届を、また、美代子と光治は、同年二月一五日、婚姻届を、それぞれ居住地の大阪府泉南郡田尻町役場に提出した。

その結果、戸籍上には原告が父光治と母美代子との間の長男として記載された。

4 その後、昭和二五年一〇月二七日、光治と美代子との間に訴外打田茂樹(以下、茂樹という)が出生したが、光治は茂樹を二男として出生届を提出し、戸籍上もその旨記載された。

5 光治と美代子とは、昭和二六年七月二四日、協議離婚し、それ以後、原告と茂樹はいずれも美代子によつて養育された。

6 そして、光治と原告らとの間の音信は絶えたまゝになつていたところ、原告は、昭和五六年一二月、突然、本籍地役場から原告の戸籍に関し、父打田光治欄消除及び続柄訂正の連絡を受け、驚いて調査してみると、光治は昭和五三年六月一四日和歌山市で既に死亡していることが判明した。

7 本件のように、戸籍上の記載が真実に合致し、これらが一体となつて身分関係が長い年月の間安定しており、かつ、実父の死亡の事実を知りえなかつた場合には、民法七八七条但書の出訴期間の制限は、その適用が排除されるべきものである。

8 よつて、原告は、被告に対し、原告が光治の子であることの認知を求める。

(予備的請求)

9 原告が光治の子であることは客観的に明らかであり、主観的にも、光治が茂樹を光治と美代子との間の二男として出生届を提出したことにより、光治としては原告が自分の子(長男)であることを認める認知の意思を有していたことが明らかである。

したがつて、光治がした二男茂樹の出生届は、原告に対する認知の効力がある。

10 よつて、原告は、被告に対し、原告と光治との間に父子関係が存在することの確認を求める。〈以下、省略〉

理由

一〈証拠〉によると、請求原因1ないし6の各事実(なお、戸籍上に原告が父光治と母美代子との間の長男として記載されるに至つたのは、美代子が原告の出生届を提出する際、光治が原告を認知していないにもかかわらず、原告の父母の氏名欄に父「山本光治」と記載したところ、本籍地の広島県賀茂郡西高屋村役場で、戸籍原簿に原告の父「山本光治」、母「打田美代子」、父母との続柄「男」と記載され、光治と美代子との婚姻届(妻の氏を夫婦の称すべき氏とするもの)が本籍地に送付された時点で、原告の父「打田光治」、父母との続柄「長男」と訂正されたことによる)のほか、光治が実生活において原告を光治と美代子との間に生まれた長男、茂樹を同じく二男として扱つていたこと、光治と美代子とが協議離婚した際には、原告と茂樹の親権者をいずれも美代子と定める旨の届出をしたこと、以上の各事実を認めることができ、この認定に反する証拠はない。

そして、右事実によると、原告は光治の子であることが明らかである。

二原告の主位的請求について

原告は、民法七八七条に基づく認知請求をしているものであるが、本件訴えの提起が昭和五七年一一月一七日であることは本件記録上明らかであるから、光治の死亡した昭和五三年六月一四日から既に三年以上を経過しており、民法七八七条但書の出訴期間を徒過しているとしなければならない。

そして、同条但書で認知の訴えの出訴期間を、父又は母の死亡の日から三年以内と定めているのは、父又は母の死後も長期にわたつて身分関係を不安定な状態におくことによつて身分関係に伴う法的安定性が害されることを避けようとするにあり、民法がこの制度について特段の例外を認めていないことに照らすと、特別立法(たとえば昭和二四年法律第二〇六号認知の訴の特例に関する法律)によつて個別的に右制限規定の適用が排除されない限り、父子関係が確実であり、父の死亡の事実を死亡の日から三年経過後に知り、かつ、認知請求を許さないとすることが認知請求者に酷になる場合が生じるとしても、前記制限の例外を認めることはできないと解するほかはない(最高判昭和四四年一一月二七日民集二三巻一一号二二九〇頁参照)。

そうすると、光治が原告の父であることが確実であり、原告が光治の死亡の事実を知つたのが光治の死亡の日から三年経過後であり、原告が認知請求の訴えを考えるに至つたのは、もともと戸籍において光治を原告の父とする記載がなされていたのに、それが長期間経過した後になつて誤つた記載であるとの理由で訂正されたことによるものであるなどの事情があるとしても、前記理由により、本件において民法七八七条但書の規定を排除することはできない。

もつとも、最高判昭和五七年三月一九日民集三六巻三号四三二頁(以下、昭和五七年判決という)は、父の死亡の日から三年以内に認知の訴えを提起しなかつたことがやむをえないものであり、また、右認知の訴えを提起したとしてもその目的を達することができなかつたことに帰すると認められる場合には、民法七八七条但書所定の認知の訴えの出訴期間は、父の死亡が客観的に明らかになつたときから起算すべきである旨判示しているが、本件では、光治の死亡の日が昭和五三年六月一四日であることは客観的に(既に戸籍上において)も明らかになつており、原告が主観的に知らなかつたというに過ぎないものであるから、昭和五七年判決とは事案を異にするものであり、これと同列に論じることはできない。

したがつて、原告の主位的請求としての訴えは、出訴期間を経過した後に提起されたものであるから、不適法として却下を免れない。

三原告の予備的請求について

前記認定の事実によると、原告の出生届をしたのは美代子であるが、原告の後に生まれた茂樹の出生届をしたのは光治であり、光治は、茂樹を二男として出生届を提出し、戸籍上もその旨記載されていることが明らかである。

ところで、嫡出でない子につき、父から、これを嫡出子とする出生届がされ、又は嫡出でない子としての出生届がされた場合において、右各出生届が戸籍事務管掌者によつて受理されたときは、戸籍法六二条に該当しない場合であつても、その各届は、認知届としての効力を有すると解するのが相当であるが(最高判昭和五三年二月二四日民集三二巻一号一一〇頁参照)、その理由は、次のとおりである。すなわち、認知届は、父が、戸籍事務管掌者に対し、嫡出子でない子につき自己の子であることを承認し、その旨を申告する意思の表示であるが、右各出生届にも、父が、戸籍事務管掌者に対し、子の出生を申告することのほかに、出生した子が自己の子であることを父として承認し、その旨申告する意思の表示が含まれていると解されるからである。

そうすると、右の趣旨をさらに一歩進めて、父が出生した子を二男として出生届をしたときには、当該届出の対象とされた子が自己の子であることを承認することのほかに、それに先行する長男を長男(すなわち自己の子)として承認する旨の表示が含まれていると解することも許容されるというべきである(ちなみに、昭和二二年一〇月一四日付民事甲第一二六三号司法事務局長宛民事局長通達によると、戸籍の記載に関し、嫡出子の父母との続柄の定め方は、父母を同じくする嫡出子のみについて、出生の順序に従い、長、二、三男(女)と称し、父又は母の一方のみを同じくする嫡出子はこれを算入しないのが相当である、とされているから、続柄を二男とすることは、父母の双方にとつて二男であることを意味する)。

そこで、これを本件についてみると、光治は、茂樹を光治の二男として出生届をしたのであるから、これに先行する原告を光治の長男として承認する意思を表示したものとみるべきであり、茂樹を光治の二男とする出生届が戸籍事務管掌者によつて受理され、戸籍上もその旨記載された以上、光治が原告を光治の子として認知することの効力が生じたものと解するのが相当である。

したがつて、原告は、光治の非嫡出子として出生したが、光治の認知によつて、光治と原告との間には法律上の父子関係が創設されたとすることができるところ、原告は、戸籍上光治を父とすることが否定され、光治も既に死亡しているので、原告が検察官である被告を相手として原告と光治との間に親子関係が存在することの確認を求める本件訴えは適法であり、かつ、その請求は理由がある。〈以下、省略〉

(孕石孟則)

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